【南蛮貿易】中国文化から西洋文化への移り変わり【大航海時代】

学んだこと

これまでの振り返り

現代の日本で生きていると、中国文化の面影を感じることってあまりないですよね
それは江戸時代ぐらいまで、日本に圧倒的な影響力を持っていた中国文化から西洋文化へと移り変わってきたからです。

日本が中国(唐や隋、明)文化を積極的に取り入れていたのは、当時の列強国に対し「日本も新しい考え方で国を収めている強い国だ!!」と明確に提示する必要があったからです。
新しい考え方=仏教ですね。

元号も権力の所在を明らかにするためのものであり、大化の改新は「一つの考えのもとに国を統治していますよ」と意思表示をしたいから行われました。
そうして日本は仏教の考え方を積極的に取り入れ、政治を行ってきました。
トップダウンの形を作りやすかった仏教を国民に広く教えていくことで、国家主権の国作りを行えるようにしたのです。

それは鎮護国家という考え方で、仏教を信じて行動すれば国を救うことができるとするものです。
仏教を国民に広めた結果、国のあり方だけでなく文化面にも広く影響を与えました。
などの輸入品、仏教などの文化の伝来がなされ、大饗料理などが生み出されました。

中国文化は唐の力が衰えるまで積極的に仕入れられ、日本文化の初期段階の形成に大きく影響を与えました。
中国の力が減退していくとともに、遣唐使などの派遣団は打ち切られ、今度は独自の日本文化を生み出していくことになります。

同じ起源を持つ中国や韓国の精進料理と、日本の精進料理が現代では全く違うものになっているのはこの時期のおかげです。

仏教が政治と深く関わり過ぎてしまった結果、奈良時代以降の僧侶たちは再度中国へと渡ります。
そうして精進料理禅宗茶の湯が持ち帰られ、さらに文化の発展へと繋がります。
少ないものでも工夫で良いものを、と食事自体を儀式、修行としさらに高みに登るために努力がされました。

茶の湯はのちに千利休によって茶道へと昇華されます。
それによって会席料理が生まれ、今日の懐石料理、宴会料理が生まれるきっかけとなっていくのです。


南蛮貿易が日本の方向を大きく変えていった

奈良時代ぐらいまで大きく日本に影響を与えたのは中国やインドなど、仏教を主な宗教としていた国でした。
そこから時代の流れ、技術の進化とともに貿易の相手にも変化が訪れました。
南蛮貿易と呼ばれる貿易体制の始まりです。
南蛮とはスペインとポルトガルのことですね。

これによって日本に輸入されたもので1番有名なものは種子島の鉄砲です。
ポルトガル人が種子島に漂着、その際に輸入されました。
学校の授業では日本対南蛮の諸国の取引が行われていたイメージが強いと思います。
ですが、南蛮貿易とは日本、中国(明の時代)、南蛮諸国で行われていた貿易のことを指します。

南蛮貿易は戦の形だけでなく、文化の形も変えていきました。
日本では主に長崎で取引が行われ、各地から商人が集まる形となっていました。
生糸、絹織物、金、陶磁器、硝石、生薬、砂糖、香辛料、カボチャ、スイカ、とうもろこし、じゃがいも、パン、カステラ、タバコ、地球儀、めがね、軍鶏が輸入されました。
またこの頃から牛、豚、鶏が来航者のために養殖されるようになりました。

なぜ日本にこの時期に欧米から来たのか

1番は大航海時代の訪れです。
大航海時代の訪れ【食の歴史】 文化を学ぶと歴史の背景が見えてくるでも書きましたが、香辛料の力がとても強いです。

具体的にいつ始まり、いつ終わったのかは諸説ありますが、おおよそ15世紀から17世紀ごろにポルトガルスペインを筆頭にした西洋列強が、新たな航路、大陸を発見していった時代のことを大航海時代と呼びます。
これによりアメリカ大陸の発見や、地球が球体であることの実証、フィリピンの命名、など様々な歴史的転換点を迎えました。
(フィリピンは当時のスペイン王子フェリペにちなんで名付けられました。)

なぜ西洋諸国が日本にまでくるようになったのでしょうか?
現在の東南アジアでは香辛料を取ることができますが、日本では香辛料を取ることができません。
目的はいくつかあります。
ひとつは香辛料などを含めた貿易路の拡大のためもうひとつは植民地の拡大、及びキリスト教の布教のためです。


なぜ大航海時代は始まったのか

大航海時代は現代日本の文化を形成するにあたってなくてはならない出来事です。
ここで西洋文化が伝来することがなければ、日本は自らの力で近代化をすることもなく、いまだ江戸時代のままだったのかもしれません。

個人的にはそれはそれで面白いなとは思うのですが、そうなってくるともしかしたらどこか列強国の植民地として支配されていた可能性もあります。
そうするといまのような日本はなく、和食をはじめとする日本文化は消えてなくなっていた可能性すらあります。

では、そもそもなんで大航海時代は始まったのでしょうか
なぜポルトガルやスペインは海へと、外へと航路を広げていく必要があったのでしょうか。

文化の形成を知るためには、少し歴史を知る必要があります。

まずはオスマン帝国について知る必要があります。

オスマン帝国は現在のトルコ共和国のことですね。
オスマン・トルコという名前を聞いたことがあるのではないでしょうか?
オスマン・トルコとは外部からの呼び名でしかなく、実際はトルコ人以外も多くいたので正しい呼び方ではないのですが、こちらに馴染みが深い人もいるでしょう。

オスマン帝国は1299年に建国し、1922年(1924年という解釈もあります)に滅亡した国です。
多民族国家であり、広大な領土を持つオスマン帝国は大航海時代には非常に強力な力を持つ帝国でした。
最盛期には北はオーストリアのウィーン、東はペルシャ湾、西は現在のアルジェリア、南はイエメンにまで至るとても巨大な国家でした。

オスマン帝国は当初トルコの国境部分、アナトリア西北部と呼ばれる場所に建国しました。
トルコ人の遊牧部族長である、オスマン1世が率いた軍事的集団がその起源です。
彼らはイスラム教徒でした。その後、領土の拡大と共に人口が増え、多民族多宗教国家として大きくなっていきます。

なぜ大航海時代の始まりにオスマン帝国が関係するのか

当初オスマン帝国はそれほど大きくない国でした。
しかし、彼らは周辺諸国と争い、友好化を繰り返し、領土を広げていきました。
徐々に力を付けたオスマン帝国は衰退と再興を繰り返し、当時の最重要地点だったコンスタンティノーブル(現イスタンブール)を1453年に攻め落とします。
これこそが大航海時代を生んだきっかけです。

コンスタンティノーブルは黒海、マルマラ海、地中海を結ぶ海峡に面している場所であり、ヨーロッパとアジアを結ぶ重要な拠点でした。
ここをオスマン帝国が抑え、地中海の制海権及び、その周辺地域における影響力を強く持つようになりました。
それは、他ヨーロッパ諸国に圧力と緊張を与えました。

特に、ヨーロッパの端に位置するスペイン、ポルトガルは苦しい立場となりました。
端に位置するため東へと向かうしかありません。
ですが、東はオスマン帝国の脅威があります。
そのため、自国を守るためにも新しい販路が必要だったのです。


中国文化は大航海時代にもきっかけを与えた

ただ販路を広げるためとは言え、なんの準備もなく海に出れるものではありません。
いまから500年も前のことですので、航海技術も造船技術も発展していません。

ではどのようにしてスペインやポルトガルは広大な海へ出ることができたのでしょうか?
それは、羅針盤の伝来が大きく影響しています。

現在ほどの制度ではないかもしれませんが、人々は羅針盤によって方角を正確に知ることができるようになり、いままで不可能と思われてきた航海を可能にすることができたのです。

羅針盤は古代中国によって開発されました。
それが、貿易の際に中国から他アジア地域へと伝わり、ヨーロッパへと広がりました。

なぜ古代中国は羅針盤を開発することができたのか

それは中国の方角に対する並々ならぬ興味が関係しています。
畏怖と言ってもいいかもしれません。

中国、人々が恐れるもの、方角、と聞いてなにが思い浮かぶでしょうかそうです。
風水です。

風水は紀元前10世紀に起源があるとされている占いの方法です。
土地や目に見えないものにはそれぞれ力があり、それを使って判断するものです。

それらの力を知り、活用するためにも方角を知るための羅針盤のような装置は必要不可欠だったのです。
中国で発掘された約6000年万の遺跡の住居部分では、出口が全部南を向いていた、とされています。
風水は11世紀に方角を使うようになった、とされていますが、もしかしたら古代中国ではこのころから方角を知る術を持っていたのかもしれません。


続く

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