【仏教】新しい文化の伝来は既存の文化を変える【古代日本から現代へ】

学んだこと

ここまで仏教のことを話してきました。「和食の歴史というかほぼ仏教の歴史じゃないか!!」というお声はごもっともです。
ですが、和食、ひいては日本文化の形成の歴史を知るために仏教の知識はかかせないのです。


仏教の伝来は人々のすべてを変えた

前回「 中国文化の影響を古代日本は強く受けていましたが、唐の力が落ちていくと遣唐使のやり取りが減っていきました。
それによって中国文化が少し残ったまま、日本独自の文化を形成していく段階に入っていったのです。」と締めくくりましたが、894年に菅原道真の進言によって唐との取引がなくなるまで、日本は隋、唐からの影響を強く受けていました。

その中で仏教は特に強い影響を与えました。
その最たるものが食肉禁止令です。

675年に天武天皇が発布してから、オランダ医学が江戸時代に日本で広まるまでの1200年余りもの間その考えは日本人の基本になったのです。

仏教は思考だけでなく食生活まで変える

食肉禁止令は仏教の考えをもとに作られたものです。
仏教では死は穢れとされ、狩猟をし手にした動物の肉を食べるのは、その穢れを体に直接取り込むものだと考えられていました。
そのため天武天皇食肉禁止令を発布したのです。

具体的には五畜と呼ばれる動物の肉を禁止しました。(豚ではなく猿だとする説もあるようです。)

そして食肉禁止令を発布した翌年、放生令が出されました。
放生とは、釣った魚などを自然に返すことです。
これは仏教の涅槃経という考え方に沿ったものです。
要はどんな生物でも命を大切にすること、そこに差はないという考え方ですね。

食肉禁止令の発布によって肉の消費量がかなり減りました。
イノシシシカなど、禁じられていない肉もあったため、食肉禁止令とは言っても全く肉が食べられていなわけではありませんでした。

しかし、民衆の食事の流れは次第に魚や豆腐などからタンパク質を摂取していく風潮へと変化していきました。
当時タンパク質という認識はされてはいませんでしたが、いわゆる食事の中のメイン、主菜になる部分が以降していったのです。

その食卓の変化が今日の和食へとつながっていきます。
そしてその流れは次第に強くなっていき、精進料理の定着へとつながっていきます。

仏教は政治の仕組みとセットで伝来したことは説明しました。
奈良時代の僧侶道鏡は女性天皇である孝謙天皇からとても重用されていました。
一部では「道鏡はとても夜が強いんだ」などとささやかれていたようです。

そうして僧侶でありながら、政治に大きな影響力を及ぼすようになった道鏡は藤原氏などの一部の氏族から強く反感を買いました。

様々な声はあれど、政治と仏教は切っては切れないものだったのです。

鎌倉時代ごろになると、一部の僧侶たちから「政治的な権力を持つことは仏教の本質ではない」との不満が高まっていきました。
そうした僧侶たちは当時の仏教の本場・中国へと再度渡り、さらに仏教を深く理解するために修行をしました。その際に日本に禅宗とともに精進料理が持ち込まれたのです。


禅宗と精進料理の発展

精進料理は仏教徒においてなくてはならないものです。
おいしいものや豪華なものを食べたいという煩悩を打ち倒し、殺生をしないために作られるものです。

動物性の材料五葷と呼ばれるニンニク、ネギ、ニラ、玉ねぎ、らっきょうを入れないものが精進料理となります。

精進とは修行のことであり、料理をすることや食事をすることなど生活のすべてが仏道を納めるためにすることであるとする弁道修行の考えから、僧侶は精進料理を食べ、その生活自体を修行としたのでした。

とは言え、食事への欲求はとても強いものです。
当時の料理はまだまだ未発達でした。
そこで料理を含めた生活のすべての行いが修行である、とする僧侶たちのこだわりが今日の和食の発展を促すことになります。

動物性の食材を使わない反面、味噌などの野菜を活かすための調味料、野菜を様々なものに変えていくためのすり鉢などの調理器具など、多様な工夫がなされました。
他者に対して「少しでもクオリティの高いものを食べさせるんだ!!」という奉仕の心や、それを自ら喜んで行う精神を身に着けるのに料理はうってつけの方法でした。

そういった僧侶たちの生活の中での修行が、限られた食材を様々な形にアレンジし、多種多様な技法を生んでいくことにつながったのです。


続きます。

タイトルとURLをコピーしました